「リボーン」孤高のライオンとプライドたちの物語Season7|ヤギ、最後のコロッセオ(早慶戦)で悲願のライオン超えに挑む!

大学王座の会場である岐阜から帰ってきた筆者(八木)は、ライオン(藤井慶二)を打ち倒すための最後の準備に取り掛かった。

「試合(王座)に出たら一生右足は使い物にならなくなるぞ」と高田馬場の整形外科の先生に警告されていた右足首の骨折は、案の定さらに悪化していた。足首は象のように腫れ上がっており、内出血で右足の側面下部は360度真っ黒に染まっていたのだ。

右足首の骨折後の内出血
画像引用元:ルチャ・リブレ馬鹿は今日もプロテインです

現に、この先生の忠告は当たっており、今現在でも筆者の右足には爆弾が眠っていて、季節の変わり目には気圧の変化に耐えられずかなりの痛みが出てしまう。自分の中では名誉の負傷ということで割り切りできてはいるが、足首に負荷がかかるスキーなどの遊びは一切できない身体になってしまった。もちろん後悔など何一つないが。

オンコート練習は全くできなかった。痛み止めを打っていない状態では歩くのでさえ痛みが出るのだから無理もない。

しかも、毎日慶應の偵察隊が東伏見(早稲田テニス部のコート)に来ていて、しらこい顔(しらじらしい顔)をしながら筆者の足をチラ見しては「王座すごかったな」と、どうでもいい社交辞令を言いながら何かヒントになるようなコメントを筆者から引き出したがっていて、結局1度も「早慶練」と呼ばれる全体練習には加われなかった。

秋の早慶戦は公式戦ではない。ただの親善試合だ。よって双方が納得さえすれば「何でもあり」で、インテリジェンス(諜報活動)は戦略上非常に重要だった。

慶応テニス部のスパイたち

ダブルスは誰と誰が組んで出てくるのか、その場合ダブルス1なのか2なのか3なのか、できるだけ正確に予想を立てることで練習の内容も大きく変わってくる。

シングルスも誰が出てくるのかを探り当てるのは、双方の最上級生のノンレギュラーに与えられた最重要な任務であり、慶應サイドからすると一度もオンコート練習をしていない筆者が試合に出るのか出ないのかは絶対に手に入れたいプラチナ情報だったはずであり、それを分かっている筆者はできるだけ慶應偵察隊の前に顔を出さないよう努めていた。

練習中はずっと部室の2階からスクワットなどのトレーニングをしながらチームの練習を見つめていた。

「SWEAT」の上が筆者がトレーニングしていた場所
早稲田大学庭球部の部室

当時、筆者の指名ボーラーだった可児や柳内渉(立教や慶應に兄がいる柳内三兄弟の末弟)とよく目があった。可児と柳内は審判台にジャッジとして立っていて、ちょうど部室の2階にいる筆者と、遠目ながらも目があいやすい位置にいたのだ。

試合中に一番身近で筆者を助けてくれたのは可児と柳内だ。劣勢で苦しいときは必ず筆者のところに走ってきて直接ボールを手渡ししてくれ、目を見て「八木さん挽回です!」とか「八木さんここからですよ!集中してください!」などと一言声を掛けてくれる。これにどれだけ救われたことか分からない。

当時2年生だった可児と柳内は、1年に主戦ボーラーを譲ってもいい立場であったが、「八木さんのボーラーをやらせてください」と2人はいつも言ってくれていて、その気持ちが何より嬉しかったし、辛い辛い試合中も彼らのおかげで孤独になることは一度もなかった。

苦しくなったとき、心が折れそうになったとき筆者は無意識に可児と柳内を目で探し、可児と柳内はそんな筆者の「助けてくれ」という心の叫びを阿吽(あうん)の呼吸で受け止めてくれて、どんなに自分たちが疲れていてもボールを筆者に投げることはせず、必ず筆者の元に走ってきて目と目を合わせて両手でボールをギュッと手渡ししてくれた。

当時の学ランボーラー
学ランボーラー 学生服ボールボーイ ボ-ルパーソン

団体戦は例えシングルスであろうと一人で戦っているわけではない。いつも筆者は可児と柳内の力を借りて、ベンチコーチだった高橋よしきと共に4人で相手と戦ってきたのだ。彼らには本当に感謝の想いしかない。

また、筆者が大学1年や2年のときは、馬場内、高澤、石原、袖岡、の4人がボーラーとして持てる体力の限界を超えて同期の筆者のために、学ランと角帽をかぶって汗の塩で学ランが白く染まり、全身痙攣を起こして倒れるくらいまでボールを拾ってくれた。

日本一の戦う集団早稲田大学庭球部は、優秀なボーラーにずっとずっと支えさられてきたのだ。そんな彼らを敗北という結果によって裏切るわけにはいかない。だからこそ、オンコートで練習できなくても、やれることを探し、限界を超えてトレーニングを続ける義務が筆者にはあったのだ。

部室2階でのトレーニングにはやれることに制限があった。筋トレ系のトレーニングは十分にできたが、持久力系のトレーニングができなかったので、同期の許可をとって慶應偵察隊にバレないよう東伏見駅近くにあるジムにこっそり行って自転車を2時間ほど漕いでいた。

自転車マシンによるトレーニング

「ほど」と表現したのは、2時間ほどで半分意識を失ってペダルを踏み外してしまい自転車マシンから落ちてしまう時間がだいたい2時間ほどだったというわけだ。

自転車トレーニングは過酷を極めた。ぎりぎり座ってペダルを漕(こ)げるくらいの超高負荷に設定していたため、大腿四頭筋(ふともも)が悲鳴を上げた。でも漕ぐのをやめるわけにはいかなかった。

自転車の周りは汗の水たまりが出来ていた。疲労がピークになったところでだいたいペダルを踏み外し、踏み外したことをきっかけにバランスを崩して自転車からジムの床にドカっと崩れ落ち、それを合図に自転車トレーニングを終了していた。

自転車から崩れ落ちた後は箱根駅伝の選手のゴール直後のようにゼイゼイ言いながらひっくり返っているので、そのたびにジムのスタッフが青ざめて駆けつけてくれたことをよく覚えている。本当にご迷惑をかけてしまったことを改めてこの場を借りてお詫びしたい。

最後のコロッセオ(早慶戦)

1993年11月22日(土)、ついに早慶戦当日を迎えた。筆者にとってもライオンにとっても正真正銘の引退試合である。

筆者はダブルスには出場しなかった。というか出たかったが出してもらえなかったのだ。

早稲田の出場選手を決める前日のミーティングは非情なことで有名だった。「勝つために誰を出すか」。それだけだった。主将だからとか、努力してきたからとか、王座で奇跡を起こしたからとか、そんなのは一切関係ない。

「八木ロブ追えないだろ?上にあげれたらどうすんの?」

というシンプルなワラ(渡辺)や高澤、馬場内(共に筆者の同期)らの問いに反論できるだけの答えを筆者は持っておらず、黙るしかなかったからだ。

オーダーミーティング
オーダーミーティング
画像引用元:京都府立鳥羽高等学校HP

結局初日のダブルスの日は佐々野・渡辺からの同情指名を受けて彼らのベンチコーチに入ることで早慶戦に参加させてもらうことになった。

初日のダブルスが終わったあとに行われた2日目のシングルマッチのオーダーミーティングでも非情さは続いた。

「ドロップショット攻撃食らったらどうする?ボール一切拾えないだろ?」

と前日同様同期たちに冷たく言われたが、主将の強権を発動した。と書きたかったが、強権など一切持っていなかったので実際には同期に拝み倒しただけだった。

「慶二とやらせてくれ」

それだけをひたすらミーティングで筆者は連呼してみんなに頭を下げた。

頭を下げる筆者

あきれ果てる同期の冷たい視線。しかし最後は筆者の熱意に根負けしてくれた。

プライド

ライオンの群れのことを、アフリカの現地では敬意をもって「プライド」と呼んでいる。そのプライド(慶應テニス部)を率いていたのが「孤高のライオン」藤井慶二だった。リーダーシップというより「強さ」でプライドを引っ張っていた。

ライオンの群れ プライド

一方の早稲田はオスたちによる合議制だ。主将に大した権限はなく、ロジック(具体性)が常に優先された。それゆえに練習試合は本番並に重要だった。

筆者の同期に佐々野という強いオスの牛(身体が牛のようにデカく麻雀が大好きだったことから雀牛(じゃんぎゅう)と呼ばれていた)がいて、ボスヤギである筆者にボスの交代を迫るために決闘(練習試合)を申し込み続け、筆者は4年間その雀牛からの挑戦を退け続け1回も負けなかった。

客観的にみて牛(佐々野)のほうがヤギより強かったし、ボスヤギ(主将)へのこだわりが特にあったわけではないが、猟奇的なほど負けず嫌いだった筆者は、練習試合だというのに本番以上のガッツポーズをして挑戦者(佐々野)を何度も追い払ってきた4年間だった。

牛と山羊

その4年間の総決算が秋の早慶戦であるとともにプライドたち全員の引退試合でもあったのだった。

運命のオーダー交換

早慶戦では初日はダブルスだけのオーダー交換をし、2日目にはシングルスのオーダー交換を試合前の整列時に行う。

オーダー交換前の早稲田大学庭球部レギュラー陣(実際の画像)
1993年秋の早慶戦での早稲田大学庭球部
一番手前が筆者

早慶戦2日目の朝、シングルスのオーダーを持った双方の主将である筆者とライオン(慶二)は互いにネットに歩み寄り、オーダーを交換し検討を誓うための握手をし、互いの整列を解いた後に、そのままコート上で分かれて両チームがそれぞれ円陣を組んだ。

「シングルスのオーダーを発表する。慶應義塾シングルスNO.6柳内!早稲田海本!」

輪の中でオーダーを大声で読み上げるのは主将である筆者の役割だ。

円陣

チーム全員モチベーション全開だ。この輪の中にはノンレギュラーやボーラー含めて戦士しかいない。オーダーを読み上げるや否や、味方全員が「ぃよぉーし!!!」と主将(筆者)の読み上げたオーダーに声の限りを尽くして大絶叫で応える。

No.6から順番に読み上げていき、シングルスNo.3のオーダーを読み上げる番になった。

「頼む。ライオン(慶二)であってくれ」

それだけを願って、筆者は慶應義塾大学のオーダー「シングルスNo.3」の署名欄を見た。

オーダー表

心臓が張り裂けそうになっているのがわかった。深呼吸をしてゆっくりと慶應のシングルスNo.3の署名欄を見たあと、筆者は顔を真っ赤にしながらシングルスNo.3のオーダーを絶叫した。

「慶應義塾シングルスNO.3藤井慶二!!!早稲田八木片男!!!」

筆者の執念が勝ったのか、それとも双方がテニスを始めた小学生時代からすでに決まっていた運命だったのかは分からない。

高校まではライバルですらなく、「刈るもの(捕食者)と刈られるもの(エサ)」の関係でしかなかったが、4年の時を経て筆者は、ヤギからグラディエーター(剣闘士)に成長し、コロッセオの舞台でライオンと最後の決戦をすることが決まったのだった。

ライオンと剣闘士(グラディエーター)

完敗

午後1時34分にライオンとの試合が始まった。場所は早稲田大学庭球部のホームコート(東伏見)である三神記念テニスコートだった。

早稲田大学庭球部三神記念コート

しかし、ドラマティックだった試合前と違い、最後のライオンとの決闘はあっという間に終わった。スコアは3-6 3-6 1-6。

筆者は1時間半もかからず完敗した。右足2か所骨折し、さらにそのケガが悪化して動けなかったことは確かだったが、それ以上にライオンは恐ろしいほど強かった。

ライオンの武器がフォアハンドであることは誰もが知っているが、意外に知られていない武器がもう一つある。フットワークだ。「それも回り込むのか」というくらい全てのボールを回り込まれ、ダイナマイトフォアで一方的に打ち抜かれた。

ライオン史上最も強かったのは、間違いなくライオンが大学1年のときの秋の早慶戦で、4勝4敗でかかったラストマッチで早稲田の松下晃先輩を打ち破った時だったと思うが、その時に匹敵するか、それ以上にライオンは仕上がっていて、どうにもならないくらい強かった。

ライオンに食べられる山羊

「羊の皮をかぶったヤギ」と呼ばれ、高校2年と3年のときにクラスメイトのジュラシックたち(増田谷澤石井)からさんざんハラスメントを受けていたいじめられっ子の筆者は、夏関のシングルスでファイナリストになり、最後の王座では自らの勝利によって大学日本一にもなった。

岡山の田舎の弱虫にしては出来すぎたテニス人生だと言えたろう。ただ、一つだけ未だに思い残していることがある。それがこの最後の早慶戦だった。

早慶戦のシングルスは慶二に負けるまで4年間無敗だった。大学4年生の1年間は、リーグ戦と王座を含めてシングルス全勝だった。ライオンに敗れたあの夏の萩山以来、筆者はライオンを倒すためだけに生きてきたと言っても過言ではなかった。

ライオンと剣闘士(グラディエーター)

過酷を極めた最後の王座練の最中、ずっとイメトレしていたことがあった。王座決勝で、4勝4敗で主将である自分に日本一がかかり、試合会場で自分の試合だけがただ一つ残っていて、N大との主将対決でマッチポイントを3回まくって大逆転勝ちして日本一になるシーンだ。

このイメトレをずっと続けてきて、岐阜での王座では恐ろしいほどイメトレしていたことと全く同じことが現実となった。違っていたのはマッポの回数が3回ではなく4回であったことくらいだった。

しかし、王座練の時にどうにもイメージが崩れることが一つだけあった。慶應が王座に出れないことは、少なくともかなり早い段階からはっきりと分かっていたのだが、王座の決勝での対戦相手として脳裏に浮かぶのは、N大の主将の顔ではなくいつもライオン(慶二)の姿だったのだ。

ライオンは王座には出れない。しかし、何度イメージしなおしてもライオン(慶二)しか明確にイメージできなかったのだ。

ライオン

今ここで初めて白状するが、早稲田の同期連中やOBには大変申し訳ないのだが、筆者にとって王座は、どうでもいいとは言わないが最も大切にした最大目標ではなかった。

早稲田に「史上最弱の特待生」と言われて入部し、ガル(立見弘一先輩)に早慶戦の恐ろしさを叩き込まれたあの日から、筆者にとってのデ杯決勝は王座ではなく、この最後の早慶戦だったのだ。

王座は早稲田に入らなくても狙えるタイトルだ。しかし早慶戦は違う。早稲田か慶應に入らなければ早慶戦を戦うことはできない。

あの蝮谷(まむしだに)での大アウェーでは、1ポイント目からまるで地鳴りが起こったかのような大歓声がこだまし、ジュニア時代から数々の修羅場をくぐり相当場馴れした選手でさえ、手足が震え試合にならないほど早慶戦は異様な雰囲気だった。

地鳴りがする早慶戦の応援

戦士のプライドとプライドをかけた戦い、それがコロッセオ(早慶戦)なのだ。

あの絶体絶命の王座で勝てたのはなぜか。今ならはっきり分かる。筆者の最大目標は王座ではなく、その先にある最後の早慶戦でライオンを打ち倒して慶應に勝つことだったからだ。

N大は王座を最終目標にしていたが、筆者は「その先」を見据えて三途の川の一歩手前に達するくらいまで努力に努力を重ねていたのだ。そのわずかな意識の差が勝敗に現れたと筆者は思っている。

王座が通過点とは決して言わない。間違いなく大学日本一を決める学生最大の超々ビッグタイトルだ。

あの当時の学生の多くが思っていたはずだが、インカレに大きな価値を誰も見い出せていなかった。なぜなら、インカレはレギュラーたちの「ただの個人戦」であって、試合に出られない補欠メンバーたちの感情など入るはずがないからだ。

大学テニス界は、レギュラーたちだけのものではない。試合に出れない補欠メンバーや主務副務を含めた全員が参加できるのが団体戦であり、「男の中の男」と呼ばれ、他大学からも畏敬の念を集められるのは「団体戦に強い男」だった。

英雄 剣闘士

その頂点が「王座」なのだから通過点であるはずがなかった。しかし、それでもなお、ガルから早慶戦の怖さと偉大さを説かれた高校3年生の2月から今に至るまで、そしてこれからもずっとずっと、筆者にとって最も価値がある戦いはコロッセオ(早慶戦)だったのだ。

その最後の早慶戦だけは、万全の状態でライオン(慶二)と戦いたかった。筆者のテニス人生に後悔など何一つないが、唯一想いを残したのが慶二と万全の状態で最後の早慶戦を戦えなかったこと、これだけだった。

勝負にタラレバはない。足を2か所骨折していようがそんなものは関係ない。どんな状態であれ筆者は最後の早慶戦で慶二に完敗した。負けは負けだ。ただし、想像することはできる。あの時、自分が万全だったら勝負はどうなっていたか。

ライオンと剣闘士

続く:次回「リボーン」の謎にせまる涙と感動の最終回!