「リボーン」孤高のライオンとプライドたちの物語Season6|4度のマッチポイントから奇跡の生還「死闘!王座」編

ついにマッチポイントを迎えてしまった。ファーストセットを2-6で簡単に落とし、セカンドセット6-6のタイブレーク3-6。トリプルマッチポイントにして、団体戦大学日本一(王座)を決めるチャンピオンシップポイントだ。

男子の3位決定戦や、同会場で行われていた女子決勝は赤堀奈緒率いる亜細亜大学が初優勝し、暗闇の中、全コートの中でナイターがついているのは、岐阜メモリアルセンター長良川テニスプラザのオムニコートの中で筆者(八木。当時早稲田大学4年)が戦っているNo.1コートだけだった。

大会本部の真ん前でもあり、No.1コートは人という人で埋め尽くされていた。団体戦特有の異様な熱気に包まれており「狂気」という言葉がこれ以上ふさわしい場もなかなかなかったであろう。

コート脇で応援歌「歌の空」を絶叫する狂気の大応援団

ダブルス3試合とシングルス5試合を終えて対戦成績は4勝4敗(通称“よんよん”)。筆者の試合に文字通り大学日本一がかかっていた。対戦相手はN大の主将(4年生)。筆者も早稲田の主将を務めていたので、まさに雌雄を決する主将対決だった。

この試合に筆者は手負いの状態で臨んでいた。

ライオン(藤井慶二)に決勝で敗れた大学3年の夏関(なつかん)以来、筆者はライオンを倒すために練習の鬼と化していた。悪魔が乗り移ったかのように練習とトレーニングに没頭しまくった。

オンコートで「振り回し練」を中心に7時間近く練習し、練習後にバーベルやダンベルを使った1時間のワークアウト(フル筋トレ)と、ワークアウトした状態で近くの武蔵関公園を毎日10キロ走っていた。

ランニングする時間はいつも夜になっていた。しかもただのランニングではない。真っ暗闇の中、公園の灯りを頼りに気を失うくらいまで毎日毎日走り続け、実際に気を失ったこともあった。

関町公園を走る筆者

人は、肉体より精神の限界が先にくるようDNA(遺伝子配列)が組まれている。なぜなら、そうしないと肉体(細胞)が本当に壊れてしまい最悪死に至るからだ。

しかしこの当時の筆者は、体を守るはずの「精神のブレーキ」が完全に壊れていて、肉体の限界を迎えるまで気が狂ったようにトレーニングしていたのだ。なぜなら、そうすることでしか迫りくるプレッシャー(王座三連覇必達)という名の恐怖から逃れることが出来なかったからだ。

大きな大会で連覇に挑戦した経験がある方なら分かると思うが、チャレンジャーと王者防衛ではかかるプレッシャーがまったく違う。「得る者」にはメリットしかないが「失う者」にはデメリットしかないのだ。

プレッシャーでうつ病になりかける筆者

早稲田は三連覇を目指していた。つまり、失うものしかなかった。

自分が止まっていることがただただ怖く、不安でたまらなかった。激しく息があがり太ももやふくらはぎに乳酸が限界まで貯まって激痛になるくらいでないと精神の安寧(あんねい)を得られなかった。

人間が肉体の限界に近づいたときにどうなるか読者諸君はご存知だろうか。筆者は知っている。まず汗が出なくなる。そしてその後に、星がキラキラ光るような感覚が全身を襲う。その先は、記憶がないので分からない。

ランニング中に関町公園で倒れて動けなくなっていて気づいたら知らない人の顔が目の前にあったことも1度あった。

これは早稲田大学という強豪伝統校の主将が背負う宿命だったのかも知れないが、チーム全員はもちろんのこと、背後にいる早稲田全OBの期待も一身に背負っていた。

そのプレッシャーは凄まじく、ご飯などまともに食べられなかった。ご飯粒(ごはんつぶ)を口にほおばっては、それを牛乳でなんとか流し込んでいたが、夜中に、晩飯で食べたものをすべてトイレで吐いていた。

トイレ

一緒に暮らしていた筆者の母と姉は「とても見ていられなかった」と後述している。

精神の限界を超えて

いつしか肉体の本当の限界が近づいてきた。右足の親指付け根が疲労骨折したのだ。でもそんなのは関係なかった。むしろ「疲労骨折するくらい俺はがんばっている」と、骨折の痛みで心が和らいだくらいだった。

疲労骨折した後も当然のように毎日激しいトレーニングを続けた。ほとんど自傷行為だ。リストカットする人は、決して死にたいわけではない。痛みによって自分が生きていることを確認しているのだ。筆者も同じで、疲労骨折の痛みで自分ががんばっていること、生きていることを確認したかったのだ。

悲劇は続いた。

大会出発前日の最後のランニング中にアクシデントに見舞われた。9.8キロ走った後のラスト200mの地点だった。真っ暗闇の武蔵関公園で、疲労のあまり意識を失いかけて足がフラつき、走るコースが1メートルほど右にズレた。

そのズレた所にあった松の木の根っこを筆者は踏んでしまい、右足首を骨折したのだ。都合2か所の骨折(両箇所とも右足)だ。

筆者が骨折した武蔵関公園

岐阜で開催される「王座」にはチームとは別行動をとった。

チームとは2日遅れの準決勝の午後に会場入りした。松葉杖がないと歩くことさえできず、同期の石原のスカイラインで東伏見から岐阜まで車でつれていってもらった。電車で東京駅に行くこともできないくらい骨折はひどい状態だったのだ。

王座決勝の試合当日の早朝、バレーボール日本代表の元チームドクターだった整形外科の名医を岐阜在住の早稲田OB岩崎さんから紹介していただき、営業時間前に訪問して麻酔を何本も足首に打ち、足首の可動域がほぼゼロになるくらいガチガチにテーピングで固定してもらい、その状態で決勝のN大戦に臨むことになった。

麻酔注射

恩人紹介

筆者が王座の時にお世話になったのは白木整形外科の白木先生という方です。
白木整形外科の白木院長
白木先生がいなかったらどうなっていたか分かりません。本当に心の底から感謝いたします。

因縁のN大

決勝の相手であるN大とは春のリーグ戦で4勝5敗で負けていた。

その春のリーグ戦でN大相手に単複で勝利してくれた若手エースの両角(もろずみ)を王座ではケガで欠いていた。両角含めレギュラー全員が万全の状態でも勝てなかったN大に対し、早稲田は若手エースの両角(当時1年生)を欠いた上に主将の筆者は右足2か所骨折の重傷。このような状態で決勝前夜のミーティングを行った。

早稲田の試合前夜のミーティングにしては珍しいくらい議論は全く白熱しなかった。チームのみんなは団体戦で異常な力を発揮する筆者に賭けてくれたのだ。と書きたかったが現実は違う。

筆者の骨折により早稲田大学庭球部の全員が、戦う前からN大に敗北するであろう確かな未来予想図を共有しており、「どうせ負けるし、引退する最後の公式戦だから主将(八木)の出場を同情的に認める」、そんな絶望的な雰囲気でしかなかった。

あれほど白けきった試合前夜のミーティングをかつて筆者は経験したことがなかった。

ミーティング

その翌日、王座の決勝を迎えた。筆者のシングルスが始まった時、時刻は15時半をすでに過ぎていた。季節は秋で、日没がすぐそこに迫っていた。相手のN大主将選手は、ケガをしていない状態でさえ勝てるかどうか分からない相手だった。事実、直近の対戦では一切ケガをしていない万全の状態で3-6 0-6(さんこだんご)でフルボッコにされていた。

まともにボールを追えない筆者(八木)はファーストセットを簡単に落とし、セカンドセットはタイブレークまで何とか持ち込んだもののポイントは3-6。トリプルマッチポイントだ。

N大の応援団が全員コートサイドの一つの金網入り口に集まっているのが見えた。N大が早稲田を倒して悲願の日本一になる瞬間だった。N大のテニス部員全員がコートになだれ込み大学日本一を祝福する準備をしていた。

N大部員たちは笑顔にあふれていた。我らがキャプテンが4勝4敗で勝負がかかった主将対決で日本一を決める。これ以上ドラマティックな展開はなかったであろう。

フェンス際で騒ぐ観客

それに対して筆者は、悲劇のヒーロー、というより、家畜のエサにすらならない間抜けで使えないヤギとして、大して客も入らないさびれた動物園のヤギ小屋の中で一生を過ごすことを余儀なくされる人生が、もうすぐそこまで迫って来ていた。

特に理由なく、N大の大応援団がいるサイドとは逆の観客席のほうを何気なくフと振り返った。「ん?」と思った。いるはずのない人間がそこにいた。慶應テニス部の筆者の同期連中だ。

「幻か?」

筆者はそう思った。

死ぬ間際、人は過去を走馬灯のように思い返すという。トリプルマッチポイントを取られ、足は2か所骨折していてまともにボールを負えない状態だった。絶体絶命という言葉がこれほどぴったり当てはまる状況もなかなかないであろう。

映画バックドラフト
画像引用元:映画「バックドラフト」

筆者はテニスに青春の全てをかけてきた。大学でテニスを辞めることも決めていた。その最後の大舞台で、自分が恐怖から逃れるためにオーバートレーニングをした挙句、勝手に足を2か所骨折してしまったばかりか、あと1ポイントで仲間からの信頼、OBからの期待、家族の想い、その全てを失う寸前だった。

それはまさに「死」に等しかった。このような状況だからこそ、いるはずのない人間(慶應の同期連中)が幻として見えているのだろうと思った。

それでも、諦めの悪い筆者はなんとかマッチポイントを1本返した。タイブレークスコアは4-6になった。そしてまた、慶應同期が見えたあたりにチラっと目を向けた。

間違いなかった。どんなに遠くても状況から全てが飲み込めた。黒い制服に身をまとったその連中はビデオカメラを回していたのだ。学ランを着てそんなことをする連中はこの状況下では慶應テニス部の偵察隊しかありえなかった。

ビデオカメラ

そして、さらに目を疑う光景がそこにあった。

筆者は早慶戦のシングルスで無敗だった。慶應サイドからすると筆者は煮ても焼いても食えない憎っくき敵以外の何者でもなかったはずなのだが、慶應の同期連中がマッポを1本返した筆者に対して拍手していたのが見えたのだ。それも「パチパチ」などという乾いた拍手ではない。魂がこもった本物のエールを筆者に送っていたのだ。

「八木がんばれ!」

声としてそう聞こえたわけではなかったが、そんな彼らの想いがコート内にいる筆者の魂に言霊(ことだま)として確かに伝わってきた。

大鐘音のエール
画像引用元:「魁!!男塾」大鐘音のエール

王座に出られなかった彼ら(慶應)にとって、残っているのは秋の早慶戦だけであった。

学生生活のすべてを部活動に注いできたのは何も筆者だけではない。慶應テニス部で試合に出れない補欠メンバーである筆者の同期連中にとって、テニスを辞めると決めていた筆者同様、彼らにとっても本当に最後の最後のビッグマッチ(早慶戦)を王座の約1ヶ月後の11月下旬に控えていたのだ。

筆者の魂に再び火がともったのもこの瞬間だった。「負けるわけにはいかない。俺が背負っているのは早稲田だけじゃない。こいつら(慶應テニス部同期連中)の人生も俺は背負っているんだ」。瞬間的にそう感じ取った。

どこかの天才政治家が「2位じゃダメなんでしょうか?」という有名なセリフを吐いたことがあったが、2位では何の意味もなかった。

蓮舫議員 2位じゃダメなんでしょうか

日本2位の相手と戦わなければならない早慶戦に彼ら(慶應)は何の意味を見出すことができただろうか。早稲田がN大を倒して日本一になり、その日本一になった早稲田を倒すことこそが「慶應にとっての早慶戦」なのだ。

2本目の相手のチャンピオンシップポイントで、ネットに出た(出るしかなかった)筆者に対しN大主将選手は渾身のフォアのアングルパスを打ってきた。筆者は片足でのダイビングボレーで目一杯ラケットを伸ばしたが、もうそこにガットはなかった。

まさにこんな感じでした
ダイビングフォアボレーをする筆者

「届かない(負けた)」

と思った。しかし、パキッという乾いた音とともに、ボールが当たった感触がラケットを通じて手に伝わってきた。

ガットがないその場所に、まだラケットの先のフレームがあったのだ。フワっと浮いたボールは、フレームショット特有の長い滞空時間を経てほんの数センチだけネットを超え、静寂の中、相手側のインコートに音もなく静かに消えていった。

ネットをわずかに超えるボール

「勝敗の差はほんの数センチだった」、という描写を本や雑誌、新聞などで見たことがあると思うが、まさにその「数センチ」が筆者の目の前で起きていた。

なぜこの時、ボールが数センチの差で相手コートに消えていったのか筆者には理由が分からなかったが、そのフレームショットには「八木、負けは許さんぞ!!」という慶應の執念が数センチ分だけボールに乗り移っていたからなのかも知れない。

フレームショットによるダイビングドロップボレーが奇跡的に決まり、九死に一生を得た筆者は、「全部前に出てやる!」と胆(はら)を決め、ネットラッシュに己(おのれ)の人生の全てを託してテニスの神様の審判をあおいだ。

順調なテニス人生とは言い難かった。どちらかというと劣等生だった。ごくごく標準的な肉体を持って生まれ、テニスにおける特別な才能など何も持っていなかったが、そんな筆者にテニスの女神様が最後の最後に微笑んでくれた。

練習でも出来たことがないようなミラクルプレーの連発が続き、計4回あったマッチポイントを全て紙一重でしのぎ切ってタイブレークを大逆転でもぎ取り、ファイナルセットに突入したのだ。

セカンドを大逆転で取って歓喜する早稲田庭球部の面々
セカンドセットを大逆転でとって喜ぶ早稲田大学庭球部の応援の面々

後日談であるが、慶應の偵察隊が撮影したビデオを引退後に筆者は譲り受けた。我が家の家宝であるそのビデオの中にこんな会話が残されてあった。

「八木マッポ4本まくったよ、、、」

声の主ははっきりとは分からないが、首藤か篠崎あたりか。「八木すごい」というより「なんてしぶとい男だ」という呆れ果てたような口調だ。

セカンドタイブレークでは筆者を応援してくれた彼らは、すでに現実に戻っていて、この2年前の王座決勝で実現していた早慶戦のシングルマッチで、同じくマッチポイントから筆者の反撃にあって敗退した過去の苦い記憶が彼らの中でよみがえったのかも知れない。

憎っくきライバル(筆者)のマッチポイントからの生還を再び目(ま)の当たりにし、留年して卒部していなかった慶應テニス部の偵察隊内山浩一さんが「早稲田勝つよ。やっぱヤギを倒さないとダメだな」とつぶやき返していた。

見聞色の覇気を鍛えすぎて少し先の未来が見える内山浩一さん
少し先の未来を予想する内山浩一さん
画像引用元:ワンピース

その時スコアはファイナルセット2-2くらいで、まだ勝負は全く分からなかったはずだが、内山さんだけは少し先の未来が見えているようだった。

「ゾーン」の正体

ファイナルセットは6-3。セカンドセットでマッチポイントを4本しのいだ筆者は、そこから完全にゾーンに入り、ファイナルセットはスコア以上の圧勝だった。

打てないはずのフォアがバコバコと決まり、ディフェンスしかできない生粋のシコラーだった筆者が、超攻撃的なテニスを信条とするN大主将選手に対し、ほとんどのポイントで攻勢をとっていた。

主務の高澤に「頼むから出ないでくれ」とかつて言われたネットプレーも面白いように決まった。まるで森井大治さん(早稲田OB)かのようなアングルボレーも決めた。人生で一度も打ったことがなかったバックハンドストレートも決まった。

すべてのプレーがまるでデジャブのように、すでに結果が見えていて、それを巻き戻しているような感覚だった。自分が打ったボールが落ちる場所が「点」で見えていてそのとおりにボールが飛んでいったのだ。

オンタイン上の落ちるテニスボール

テレビなどで「〇〇選手は完全にゾーンに入りましたね」と解説者が言うことがあるが、筆者から言わせるとそれはゾーンとは言わない。ただ単に最高に調子が良いだけだ。

筆者もこの王座決勝でのたった一度だけしかゾーンらしきものを経験していないので確かなことは言えないが、このとき体験した「巻き戻している」という感覚にまで至るのが本当のゾーンの正体ではなかろうかと思う。

自分が打ったボールが落ちる場所が「点レベル」ですでに「結果」として見えていて、糸を引くように巻き戻しながら過去と現在がつながっていたように筆者はこのとき感じていた。

「哲学」の上に「形而上学(けいじじょうがく)」という学問があり、その中にワンネス(oneness)という概念が出てくる。自分と自分以外の境目がない状態、つまりすべて(宇宙)は「一つ」。この王座決勝の大舞台で筆者はワンネスの入り口に立っていたようだった。

アリストテレスの形而上学
画像引用元:amazon.co.jp「形而上学|アリストテレス」

自分(筆者)も対戦相手も観客も、過去も未来も一つになっていた。「ゾーン」と呼ばれるものの正体を理論付けて説明できるほど学術的な探求をしたことが筆者にはないが、この王座決勝でのマッチポイント以降に起きたことはゾーンの正体に迫る上で有力なヒントであったようでならない。

「ゾーン=ワンネス」かどうかは断言できないが、この大舞台で筆者は、ゾーンの正体を解明する一つの有力な仮説にたどり着いたことだけは確かだった。

すべてが本当にクリアに見えていた。どこに誰が応援に立っていて、その観客が自分自身でもある。どこにボールが飛んでくるのか。自分のサーブが入るのか入らないのか。筆者がラケットでボールを打っているのではなく、ボールがラケットを、ラケットが筆者を操作しているようにさえ感じた。

狂気ともいえた激しいトレーニング、右足2か所の骨折、4勝4敗という状況、三連覇のプレッシャー、会場でただ一つだけナイターがついているNo.1コート、トリプルマッチポイントという絶望。それらすべてがシンクロし、筆者は「ワンネス(=ゾーン)」の世界に導かれていったように思う。

ワンネス oneness

最後の最後で執念を見せたN大主将選手の脅威の粘りもあり、もつれにもつれたサービングフォーザマッチでの早稲田の3度目のチャンピオンシップポイントで、

「八木ネットだ!ネットに出ろ!」

とコートの外から筆者に叫んでいた副将佐々野健一の声にうなずき、右足を引きずりながら筆者はサービスダッシュをした。

ジュニア時代から、ピンチの時にいつも筆者を助けてくれたネットプレーにすべてを賭けたのだ。

相手選手の回り込んでの強烈なフォアリターンが筆者の足元に突き刺さる。筆者はネコ科の獣のように猫背になりながら目線をさげて丁寧にファーストボレーを相手のバックハンド側に返す。フォアが得意な相手選手はもう一度回り込んで逆クロスのパスを筆者に放つ。痛みで動けない筆者はラケットだけをなんとか出して体勢を崩しながらボールを返す。

ダイビングボレーをする筆者

ボールは力なく相手コートのど真ん中に飛び完全なチャンスボールになってしまったが、肩の高さくらいから放たれた相手選手のフォアのパッシングショットが筆者のバッグサイド側のネットの中段あたりにかかり、ついに早稲田は日本一になった。悲願だった全国3連覇を達成したのだ。

早稲田テニス部員全員がコートになだれ込んできて、筆者はもみくちゃにされた。試合中、劣勢だった筆者を見捨てて他のコートの応援に回っていた馬場内大造が、「お前を信じていたぞ!」とばかりに筆者に真っ先に抱き着いてきたのには少々引いたが、とにかく早稲田は日本一になったのだ。

実際の写真(筆者は中央)
王座で日本一になってもみくちゃにされる八木片男

副将だった同期の佐々野が「早稲田魂ここにあり!」と絶叫した表彰式が終わり、ナイターの中、胴上げの時間になっていた。松永監督を筆頭に次々と筆者の同期連中が笑顔で胴上げされていったが、筆者が笑うことはなく、その胴上げの輪にさえも加わらなかった。

胴上げ

本来であればキャプテンでもあり4勝4敗でかかった最後のシングルスで日本一をだぐり寄せた筆者は、真っ先に、あるいは監督の次くらいに胴上げされてもおかしくなかったのだが、筆者がそれを本能的に拒否したのだ。

拒否したのはなぜか。答えは簡単だ。筆者はまだ、テニス人生最大にして最終標的であるライオン(藤井慶二)の首をまだ奪(と)っていなかったからだ。

「これで終わりじゃねえ。まだコロッセオ(秋の早慶戦)が残ってる。ライオンを絶対に打ち倒すんだ!」

日本一にはなったが、まだ筆者はお腹が空いていた。

あの大学3年の、真夏の萩山での屈辱を忘れられるわけがない。借りたものは、利子をつけてきっちりお返しするのが戦士の礼儀というものだ。このままでは絶対に終われない。王座の幕が下りるとともに、ライオンへの最後の復讐劇が幕を開けた瞬間でもあった。

ライオンと戦士

「Season7 最後のコロッセオ(早慶戦)。ヤギ、悲願のライオン超えに挑む!」編に続く