「リボーン」孤高のライオンとプライドたちの物語Season5|プロスタッフを相棒にライオンと夏の関東学生で5時間半の死闘

筆者(八木)が再びライオン(藤井慶二)と合いまみえたのは、大学3年の真夏の炎天下で、舞台は萩山(はぎやま)テニスクラブのクレーコート。関東大学テニス選手権大会、通称「夏関(なつかん)」のシングルス決勝戦だった。

この夏の筆者は神懸かっていた。筆者はフォアハンドが大の苦手なのだが、なぜかこの夏の一週間だけフォアが覚醒していたのだ。

この大会の少し前に大阪のうつぼで開催されたインカレ(クレーコート)一回戦で日大の永井選手(弟のほう)に瞬殺されていた筆者は、苦手のクレーコートで開催される夏関に全く期待していなかった。

インカレで一回戦負けして何もやることがなかった筆者は、気晴らしに後輩のラケットであるウィルソンのプロスタッフを借りて、全盛時を迎えつつあったサンプラスのサーブのものまねをしながら練習していたら、インカレの2週間後に開催された夏関のトーナメント3回戦で突然フォアハンドにサンプラスが憑依(ひょうい)したのだ。

名器紹介

ウィルソンプロスタッフ
画像引用元:みんなで作るテニスラケットデータベース

当時筆者はダンロップ社と契約していたが、MAX400iが廃盤になって以降、なじむラケットに出会えず後輩が使っていたウィルソンプロスタッフを借りたところ、あまりの性能の高さに衝撃を受けて、最終的に自費で購入して使い続けた経緯がある。特にグリップに筆者はこだわりがあり、本革であるFairwayを愛用しグリップテープをあえて巻かなかった。

苦手のクレーコートで、しかも3回戦の相手は完全に格上だった青学のU田(元柳川高)である。

勝てるわけがないのだが、ラケットを変えたことによって面白いようにフォアが打てるようになり、U田の生命線であるデュースサイドでのワイドへのフラットサーブ(U田はサウスポー)をことごとくサンプラスフォア(フォームは似ても似つかない)でストレートへのカウンターリターンエースを奪った。

それだけではなく、ストローク戦でもU田得意の回り込んでのフォアの逆クロスをカウンターのフォアでさんざんストレートに射抜いて1stダウンから逆転勝ちした。

余談であるが、U田戦は実は徹夜明けだった。当時大好きだった子がU田戦の前夜ヤギ小屋に泊まりにくるという漫画「やれたかも委員会」のような有り得ない衝撃の展開で夏関どころではなかったからだ。

ベッドで寝ている美人女性

U田との試合は一睡もしておらず体力ゼロだったので、少しでもラリーを減らそうと開き直ってフォアをバキ打ちしたら全部入っただけなのだ。真剣に試合をしていたU田には本当に申し訳ないと今でも思う。

なお、童貞だったヤギは緊張しすぎてその子に指一本触れることさえできなかったことは言うまでもない。また、本件は「やれたかも委員会」に実際にかけられ、能島明とパラディソは「やれた」の札を出し、月満子は安定の「やれたとは言えない」の札だったことも追記しておく。

やれたかも委員会
出典:漫画やれたかも委員会

試合が終わった後、ライオンとすれ違った。

「八木、U田に勝ったんか?」

いつものコテコテの関西弁だ。「やるな」というセリフが言外に含まれている。

「ああ(勝ったよ)。でも次日置だから(次で終わりだよ)」

「せやったな(日置にはさすがに勝てへんわな)」

大して気にも止まらないような「ガオォ?」「メェェ」という捕食者とエサの10秒ほどの会話だったが、ライオンとヤギの人生は数日後にまたもや交錯することになることを二人はまだこの時点では知らない。

運命の歯車は意外な形で動き始めた。

運命の歯車

ベスト16の相手はライオンの後輩であり「慶應のジュラシック」ことブラキオサウルス(日置)のはずだったが、そのブラキオサウルスは亜細亜大のM島選手の時速38キロほどしか出ていないスーパースローサーブと老獪なストロークに翻弄され、相手ペースに完全に合わせてしまい自滅。

敗北後コートを出る際、プリンスグラファイト110をコナゴナにへし折って萩山のゴミ箱に捨ててコートを去っていったのだ。

日置のほうがヤギ(筆者)よりはるかに強かったことは説明するまでもない。しかし、その日置はもういない。そして筆者は球の遅いM島選手のようなプレースタイルは大得意にしていた。
※逆に筆者が一番苦手なのはマジシャン嶋田康男さんや平岡伸雄さんのようなセンス系

【当時の日置のイメージ】
ブラキオサウルス
出典:映画ジュラシックパーク

そのM島選手をベスト16でストレートで下し、ベスト8での対戦相手だった亜細亜大のイケメンビッグサーブ選手を、覚醒したフラットフォアで打ち滅ぼして勝ち上がり、準決勝の日大のH浦(元堀越学園)戦では、サンプラスフォアに加えて「ドロップショット&バックのフラットロブ」のコンボ技が開花し5セット目に突入する5時間を超えるロングマッチの末に大逆転勝ちして筆者は決勝に進出した。

決勝の相手は宮地だと思っていた。

このころにはすでに宮地は覚醒しジュラシック化していた。育史や健太郎のような成獣のTレックスとはいわないが、TレックスJr.くらいにはすでになっていた。成獣が15mなら宮地はこの時点で身長8mくらいにはすでになっており、ライオンが手に負える相手ではなかった。

ジュラシック 恐竜

後に全日本選手権シングルスで2度のファイナリストになった男であり強いなんてものではなかったし、松下晃先輩や「ケンちゃん1ゲームちょうだい事件」の首謀者、原田夏希をして

「宮地(のストローク)ヤバくないすか?ポイント全然取れないんですけど」

と早稲田の部室でささやき合っていたほどだ。

宮地 弘太郎
宮地 弘太郎

プロレスラーに「スーパーストロングマシン(お前平田だろ!)」という有名マスクマンがいたが、さしずめ宮地はスーパーストロークマシンだ。ヤギのパチモンフォアで何とかなる相手ではないどころか、決勝の舞台で一方的な公開リンチを食らうことは目に見えていた。

余談

余談であるが、宮地は筆者の同郷の後輩だ。筆者が岡山で宮地が広島。中学のころ、広島からお父さんのセブンススカイラインに乗せられて宮地は岡山まできていて、よく一緒に岡山理大で練習をしていた仲だ。

遠藤愛さんもよく岡山理大にきていて、筆者の誕生日に遠藤さんに負けた苦い想い出もある。その岡山理大近くの駄菓子屋で「コンちゃんガチャガチャ買って♪」と宮地にねだられてガチャガチャを買ってあげていたことを懐かしく思う。

ガチャガチャ
ガチャガチャ

さらに細かいネタで恐縮だが、「調子が悪いときの育史さん、調子が良いときの育史さん」という宮地のモノマネは慶應松川も真っ青のマニア必見の爆笑モノマネだ。

話を戻そう。

その宮地の準決勝の相手がライオン(藤井慶二)だった。ライオンの強さは筆者だけでなく誰もが認めていた。しかし、宮地はもはやジュラシックJr.なのだ。いくらライオンでも勝ち目はないと筆者を含めたほぼ全員が思っていたはずだ。

筆者が準決勝を終えてコートを出た時、夏関準決勝の宮地弘太郎VS藤井慶二の試合には黒山の人だかりが出来ていた。例の慶應の名物制服軍団だ。それだけではない。会場中総ての人が集まっているようだった。

藤井vs宮地に集まる大観衆
夏の関東学生テニス

「何かが起きている」

直感的にそう思った。地鳴りが聞こえてきたからだ。いやまさか。いくらライオンと言えども相手はジュラシック宮地。何か起こせる相手ではない。種族(階級)が違うのだ。

しかし、筆者の直感は当たった。

後にモノホンのTレックス(育史や健太郎)たちをも震撼させることになる日本最強のスーパーストロークマシン宮地に対し、なんとライオンはそのストローク戦で一歩も引かないどころか、得意のダイナマイトフォアでド正面から真っ向勝負していたのだ。

総合格闘技の試合で、高山とドンフライがコーナーでお互いを左手で押さえつけながら50発くらい殴り合った有名な試合があるが、まさにそんな感じだった。

テニスに例えるなら、

ジョコビッチ(宮地) VS フェルナンド・ゴンザレス(藤井慶二)

こんな感じであろう。

フォアバックまんべんなくハードヒットでき、総てのボールに追いつくフットワークを持つジョコビッチ宮地に対し、ゴンザレス藤井は総てのボールを回り込んで時速300キロを超えるダイナマイトフォアをこれでもかとぶっ放しまくり、そのフォアが決まるたびに慶應大応援団たちは大根を両手に魂のエールをライオンに送り続けていた。

ライオンにエールを送る慶應の応援団

とんでもない戦いだった。

宮地がバックのアングルショットをライオンのバックサイドに打っているのに、そのアングルショットをライオンは隣のコートくらいまで走って回り込んでシャラポワの10倍くらい絶叫しながらダイナマイトフォアをストレートにブチ叩いていた。ストレートのはずなのに逆クロスの弾道なのだ。

ライオンVS宮地の貴重な映像が残っていたので紹介する(手前がライオン)。

あまりのフォアの破壊力に解説者が「ぷふぅぅ」と謎の息を漏らしているが、それも仕方のないことであろう。

「ポール回し」というショットがある。

普通はフォア側のアングルに飛んできたボールを巻き玉でストレートに決めるショットだが、ライオンは違う。ライオンは自分のバック側に飛んできているアングルボールを隣のコートまで走って回り込んでのポール回し、いや、もはやそれは「審判台回し」だった。決められた宮地ももはや笑うしかなかった。

最後のほうのライオンのフォアはスマッシュにしか見えなかった。時速にして350キロは出ていたと思われるそのスマッシュフォアにより、学生史上に残る大激戦(5セット)の末、ついにライオンは高校時代に無しえなかった悲願の「ジュラシック超え」を果たしたのだ。

【勝利の雄叫びをあげる慶二の実際の映像】

インカレをウィンブルドンに例えるとしたら、夏関は全仏オープンのような大会だ。本当に大きな、学生テニスを代表するビッグトーナメントだ。つまりこの試合は全仏オープン準決勝だと思えばいい。そのビッグマッチでライオンはついにジュラシックの一角を打ち崩すことに成功したのだ。

ライオンに敗北しグレてしまった宮地教授
宮地 弘太郎

これで全仏オープン決勝は「ライオンVSヤギ」、つまりローマ(イタリア)からパリ(フランス)に会場を移してのコロッセオ(早慶戦)になってしまった。

作戦を立てる時間はたった1日しかなかった。

クレーコートでネットダッシュをかましてもカモがヤギ(ネギ)を背負ってノコノコとライオンの前にやってくるようなものになってしまうし、かといってストローク戦で打ちあえるだけの技術も体力も筆者が持っていないのは明白だ。

選択肢は一つしかなかった。全日本ジュニアベスト16で永井(何回も名前出してごめん!)を打ち破ったカメディフェンスだ。

幸い試合会場の萩山(はぎやま)は、コートの後ろがやたら広かった。もちろんこれだけでは勝ち目はないが、今はたまたまフォアが確変中(パチンコ用語)だったので、フォアのカウンターに賭けようと思った。

つまり、粘って粘って慶二が我慢し切れずにフォアを筆者のストレートにぶち叩いてきた時にフォアのクロスカウンターを狙う、その一点に筆者は賭けることにしたのだ。

怒る亀

ライオンは大学1年のリーグ戦のときのように油断はしていなかった。この大会をもって初めてライオンはヤギ(筆者)をエサではなく「ライバル」として認めてくれていたようであった。

完全にアウトの軌道で飛んで行くものの、あまりの当たりのヘボさのためベースライン付近で絶妙に失速する筆者の必生(必殺の反対)バックハンドしょんべんスライスを、ライオンが回り込んでの得意のゴンザレスフォアで逆クロスに打ち殺しにかかる。

筆者がそれを後ろのフェンスぎりぎりまで下がりながらスライスで何度もしのぎ、しびれを切らしたライオンが回り込んでのフォアをストレートに強打してポイントを決めにかかる。

筆者はそれを見逃さない。肉を切らせて骨を断つ筆者のフォアハンドクロスカウンター。ラリーの勝敗は紙一重だった。筆者のクロスカウンターが決まるかライオンのフォアハンドの威力が勝ってエースになるか2つに1つ。これを真夏の炎天下の中、永遠5時間半繰り返した。

実際の映像がこちら。手前の黄色がヤギ

筆者も最後の最後までボールを追いかけ開花したフォアハンドカウンターでライオンに食い下がりまくったが、最後はライオンの執念が勝った。

実は、大学1年のリーグ戦のあと、大学2年の王座決勝でのダブルス(藤井・日置vs八木・原田)でもライオンはヤギ(筆者)の後塵を拝していた。

高校時代のダブルスではヤギをザリガニに仕立て上げた男である。いくらダブルスとはいえ「王座」という大舞台でヤギに敗れる、しかもセンターコートの大観衆の中でストレート負けするなど屈辱以外の何物でもなかったであろう。

ジュラシック喰いを目標に生きてきた男がまさかヤギに2連敗するとは夢にも思わなかったはずだ。3連敗などありえない。そんな気迫が恐ろしいほど伝わってきた試合だった。

燃えるライオン

5時間半続いた試合もファイナルセットは1-6と一方的なスコアだった。筆者はライオンの執念の前に心を根っこからへし折られてしまいフルセットのすえにライオンの前に膝をつき、再び筆者はライオンのエサとなってしまった。

ライオンの勝利への執念は本当にすさまじく、メンタル最強を自負する筆者が生まれて初めて、そして人生でたった一度だけメンタル勝負で負けてしまったのもこの試合だった。

筆者(ヤギ)のテニスを知っている人なら分かると思うが、筆者には武器というものは何もなかった。パワーもなければ足も遅い、体力もない、ストロークを打てば、高校時代にSSCでいつも一緒に練習していた原広子や赤堀奈緒のほうがはるかに球は速かったし、フォアは打てない決められない、バックはしょんべんスライスしか打てない。

一見得意そうに見えるボレーも、「頼むからネットに出ないでくれ」と4年の春のリーグ戦で早稲田の主務(マネージャー)をやっていた高澤浩から懇願されたこともあるほど決めきれないボレーだった(ローボレーだけやたら得意だった)。サーブも遅いうえにそこそこダブるしスピンサーブも打てない。

筆者には武器らしい武器が本当に何もなかったのだ。

ゾロ「何もながっだ」
画像引用元:ワンピース

我ながらよくこのテニスで戦ってきたなとずっと思っていたが、その筆者にもたった一つだけ武器があった。それがメンタルだった。

ひとたびコートに立てばどんな大舞台であっても動じることはない。むしろゴルゴリのアウェー、特に慶應のホームコートである蝮谷(まむしだに)での大アウェーなど筆者にとっては大好物中の大好物だった。

コートを取り囲む慶應の黒い制服軍団は筆者にとって、とびきり甘くて美味しそうなチョコレートケーキにしか見えなかったし、もっともっと大勢で取り囲み、罵声の限りを筆者に浴びせてビビらして欲しいとさえ思っていたくらいだ。舞台が大きければ大きいほど燃えに燃えた。ヤジられるほどエクスタシーを感じた。

白目をむく筆者
白目をむく男性

普段たいして練習しないのに、試合会場に入ると突然頭にバンダナを巻いて「俺を見ろ!」とばかりに時速250キロで壁打ちをし始める「壁打ちマイスター」石井弘樹の気持ちは筆者にはさっぱり分からなかったが、「俺を見ろ」という部分だけは共感できた。
※一説によれば石井氏は壁打ちで燃え尽きて試合でのパフォーマンスが今一つだったらしい

団体戦のシングルスではどんな猛者にも格上にも負ける気はしなかった。決して緊張しないわけではないが、足がガクガクと震えるような状況であればあるほど「俺はこの時のために生まれてきたんだ。俺は今生きている!」と一人で武者震いしていたものだ。

その筆者の最強メンタルをライオンはへし折ったのだ。個人戦とはいえ、悔しいなんてものでは済まされなかった。自殺したい気分だった。

映画 切腹
画像引用元:映画「切腹」

技術で負けるならまだしも、メンタルでライオン(慶二)の後塵を拝したのは屈辱以外の何物でもなかった。せめてテニスで負けたかった。それならまだ納得もいく。でも、この時は筆者唯一の武器だったメンタルをライオンにへし折られてしまったのだ。

そして、この屈辱の敗戦を機に、筆者はかぶっていた羊の皮を脱ぎ捨て、そしてヤギも卒業し、ライオンの首「だけ」をひたすらつけ狙う一人のソルジャー(戦士)として生まれ変わったのだった。

戦士

4度のマッチポイントから奇跡の生還「死闘!王座」編へ続く