「リボーン」孤高のライオンとプライドたちの物語Season3|ライオンにエサだと認識されてしまった筆者(八木)

話を主人公(慶二)に戻そう。当時、大阪の名門清風高校の絶対エースとして君臨していたライオン(慶二)とヤギ(筆者)の初対戦、というより初ディナーは、全国選抜(団体戦)の決勝戦、相模工業大学付属(神奈川) VS 清風高校(大阪)のダブルスNo.1だった。

筆者のパートナーは、高校のクラスメイトにして我が主君でもある増田健太郎。言わずと知れた日本テニス界を裏から操る「王」だ。

そう遠くない将来に「テニス界の山根明」と呼ばれる日が来ることはほぼ確実であろう。というかすでにそうだ。試しに健太郎の後ろから「山根さん」と呼びかけてみてほしい。「んっ?」と振り返るはずだ。

山根さんと声を掛けられて振り返る男性

対する清風高校のライオンのパートナーは岩石岩男(以降、岩男。本名SゲイエTカシ)。その名のとおり、見た瞬間目をそらすしかないほどおっかない顔をした「THE顔面凶器」だ。

顔面凶器
画像引用元:小沢仁志

実はこの岩男という男のことは、この物語からさかのぼること1年半前の高校1年生、筆者がまだ岡山理科大学付属高校(加計学園)で「岡山の王」と言う名の井の中の蛙(かわず)として君臨していた頃にさかのぼる。

クラスメイトから、「ワイの地元(兵庫)でケンカがゴッツう強い奴がおったんや。岩男ゆうて、テニスやっとるらしいんやけど知らんか?」と質問された。

そのクラスメイトは「ほぼ人間」と呼ばれていた柔道部の白いゴリラ(推定体重350kg)だった。

白いゴリラ

「ほぼゴリラ」というやつは探せばたまに見つかるが、このクラスメイトはゴリラに近い人間ではなく人間に近いゴリラだった。細かく言うと肌の色が白かったので白いゴリラと表現した。名前は忘れたが笠原?だったと思う。違ったかな。

岩男のことは筆者はもちろん知っていた。岩男はすでに全国区の選手であり、隣県の岡山にも(テニス選手としての)名声が響き渡っていたからだ。

上背こそないが、筋肉の塊、鋼で包まれたボクサーのような肉体をしており、恐ろしくケンカが強かったというのもうなずけるし、大学時代はあのサトテツ(佐藤哲哉さん)さんにパワーで一歩も引かない試合を繰り広げていたこともよく覚えている。

佐藤哲哉さん
佐藤哲哉さん
画像引用元:佐藤哲哉|オフィシャルウェブサイト

ライオン(慶二)は、同期でもあるその岩男を後ろに従えてテニス会場をガニ股で闊歩し、北斗の拳に出てくるラオウの兄カイオウで言う所の空間をもゆがませる「魔闘気」を身にまとい、

「殺すぞ!」

という悪のオーラをイチミリも隠そうとせず、幻魔影霊(げんまえいれい:魔人の影のこと)によって会場のライバル達を威圧しながら道のド真ん中を肩で風をきって歩いていた。

慶二の幻魔影霊
幻魔影霊
画像引用元:北斗の拳

そう、カイオウ(ライオン)がつけ狙っていたのは増田山本谷澤石井、この4頭のジュラシックの首なのだ。それ以外は筆者を含めてただのエサかオヤツにしか見えていなかったはずである。

試合が始まり、岩男が凡ミスをしようものなら「チッ」という舌打ちから始まり、手を変え品を変え同期でありパートナーでもある岩男にパラハラの限りを尽くしていた。「ほぼ人間」と呼ばれていた岡山理大柔道部のあの白いゴリラをも恐れさせた岩男をである。

岡山理大の「ほぼ人間」こと笠原
重家孝

ライオンの腕は異様に発達していて握力は400kgをゆうに超えていたと聞く。「400kgなんて大袈裟な」とツッコミを入れたくなる気持ちも分からないでもないが、本当のことなのだ。論より証拠。当時のライオン(慶二)の貴重な写真が残っていたので掲載しておく。

慶二

このポパイのような前腕から繰り出される自慢のビッグフォアハンドで、まるで親の敵(かたき)のようにライオンはボールをしばきまくっていた。

この男の辞書にバランスだのリズムだのタイミングだの、ましてや体重移動や腰の回転だのといった軟弱な文字は一切無い。

そんなものはライオンにとって上等な料理にハチミツをブチまけるがごとき愚行であり、必要なのは腕力(わんりょく)、ただそれだけだった。当時のライオン(慶二)の名刺には、住所も電話番号も記載がなく、ただこう書いてあったらしい。

腕力家 藤井慶二

脱線ついでに、筆者がなぜこの男にライオンというニックネームをつけたかということを話すと、グラップラー刃牙(バキ)という超人気漫画に出てくるライオンのような髪型をした「地上最強の生物」範馬勇次郎(はんまゆうじろう)は、何を隠そう慶二をモデルに作られたキャラクターだったからだ。下記画像を参照いただきたい。

範馬勇次郎のネタ元は慶二
画像引用元:グラップラー刃牙

慶二にクソソツ、いやクリソツであることがお分かりいただけただろう。

慶二のいけにえになってきた慶應テニス部の後輩たちは上記URLを通勤中にクリックしたら最後、電車内で失禁では済まされず、志村けんを連れてこなくてもだっぷんだぁしてしまうだろう。

無理もない。あの王(増田健太郎)でさえ慶二をおちょくるのは命がけだったのだから。
※とはいえ王は、ライオンをおちょくりまくってはライオンに追いかけられて試合会場をケタケタ笑いながら逃げ回っていた。

そのライオンに、鬼のようなストレートアタックを筆者は喰らいまくり、王(健太郎)サーブの時は前衛の筆者はサービスラインくらいに立っていた記憶がある。

「前に詰めろ」と健太郎に引っ張られる筆者
首を引っ張られる犬

前衛なのにあやうくドロップショットを決められる位置にまで下がって筆者は構え、ライオンがフォアを振りかぶるたびにザリガニ並みのバックステップでさらに後方に飛んで逃げ、パートナーの王(健太郎)がサービスダッシュしてきているのに平行陣ではなくがんこう陣になってしまうという次世代型のダブルス戦略を生み出したのも何を隠そうこの筆者だった。

慶二のストレートアタックから逃げる筆者

試合中盤以降、筆者は自分がヤギなのかザリガニなのか分からなくなってしまっていた。センターコートで試合をしていて1,000人近い観客がいたのでほぼ公開処刑と化していた。北朝鮮に行ってもこんな光景はなかなかお目にかかれないだろう。

マイク・タイソンのサンドバッグ打ちを見たことがある人なら分かるだろうが、だいたい同じような光景が博多の森のセンターコートに広がっていた。

ライオンのフォアは異常に重い。ただ速いだけでなく重さがあった。そしてなんといっても華(はな)があった。

相手を威圧する大きな構えからスピンなどイチミリもかけずにキョフラット(ドフラットのさらに上)でボールを横ではなく真上から真下にぶっ潰していた。もう一度言う。真上から真下だ。

よく「上からボールを叩け」と我々は指導されてきたと思うが、それはものの例えだ。本当にボールを上から叩いてしまえばボールはブラジルの方向にしか飛んでいかない。

ブラジルに向かって叫ぶ筆者(ヤギ)
ブラジルの人聞こえますか~

しかしライオンにとってはボールを上から叩いても何も問題なかった。

ライオンは魔闘気「暗琉天破」によって空間を捻じ曲げられるのでニュートンの法則や慣性の法則など関係ないのだ。この男は本当にボールを上からハンマーのように叩いていたのだ。

暗琉天破によって空間を捻じ曲げるライオン
カイオウの暗琉天破
画像引用元:北斗の拳

後日談であるが、1年生の時の春関会場だったトピレックで「膝(ひざ)から上のボールは全部叩けますわ」とディアドラの営業担当者にライオンは豪語していたことがあったが、その横で飯を食べていた筆者は肩から上のボールをこすり上げてスピンをかけていた。世の中不条理なものである。

フォアハンドを得意とした選手は他にもいたが、同期ながら筆者がもっとも憧れ、そしてもっとも欲しかったのがこのライオンのダイナマイトフォアだった。

ダイナマイトフォアが火を噴いた瞬間をとらえた画像
ダイナマイトフォアが火を噴いた瞬間

マイク・タイソンも真っ青の慶二のダイナマイトフォアハンドの前では、理屈も法律も秩序も道徳も、公平も公正も何もない。習近平やウラジミール・プーチン、ドナルド・トランプでさえただひれ伏すだけであろう。

当時のテニス界にはアンタッチャブル(どうにもならないもの)が2つあった。1つはプリンスグラファイト110(ガットはアラミックス)から放たれる谷澤英彦のアドコートのワイドへ切れるスライスサーブからのフォアハンドドライブボレー、通称「サーブ&フォア」。そしてもう1つが慶二の一撃必殺ダイナマイトフォアハンドだ。

GENBAKU < SUIBAKU < KEIZO

威力としてはだいたいこんな数式になるはずだ。慶二の剛腕から繰り出されるダイナマイトフォアが放たれた後には、ただ無慈悲で草一本生えてこない荒野が広がるだけだった。

慶二がフォアを打った後のテニスコート
慶二がフォアを打った後のテニスコート

ちなみにSSCのインドア2番コートの「ボール速度の公式」にこんなものがあったことも併せて紹介しておく。八木片男 < 山岸依子 < 原広子 < 赤堀奈緒

試合はライオンペアの勝利に終わり、本来なら悔しくて仕方がないはずであるが、試合後の握手のときには、公開処刑から解放された安堵感とともに、ライオンのハラスメントに耐え抜いていた岩男に筆者は少なからず親近感を覚えていたことは言うまでもない。

それ以来筆者は、大学卒業に至るまで近畿大学に進学した岩男と試合会場ですれ違うたびにお互い微笑み返し合っていたことを懐かしく思う。岩男元気してるかなあ。柴田とかどうしてるんだろ。

優勝した相模工業大学付属高校の実際に写真
選抜で優勝した当時の相模工業大学付属高校テニス部

「大学進学、そして春のリーグ戦編」へ続く