山梨から世界を虎視眈々と狙う男「天才」石井弘樹 その1|「リボーン」エピソードゼロシリーズ

もうすぐ東京は梅雨入りしそうだった。この時期になると筆者(八木片男)の古傷である右足首はズキズキと痛む。

「いやな季節だ」

そう思いながら社畜前の早朝の日課で、自宅と最寄り駅の間にある高円寺のジムに立ち寄り、メインメニューであるデッドリフトをやろうとしていた筆者は、同じ空間にいる高校生にふと目を止めた。

「いい体してるな」

筆者は心の中でつぶやいた。

デッドリフト
デッドリフト
画像引用元:https://stronglifts.com/deadlift/

筆者も決して小さいほうではないが、その高校生は背こそそれほど高くないものの、全体的にがっしりしていて胸板も厚く、120kgのバーベルをかついで黙々とスクワットを行っていた。

「まだ高校生なのに120kgでセット組めるのか、、」

筆者が筋トレを始めたのも高校生の頃だったが、スクワットだとせいぜい70kgくらいが限界だった。

すでにアラフィフに突入していた筆者からすると、その高校生は二周り以上年下だったが、よせばいいのに忘れてかけていた闘争心に火がついたしまったようだった。

燃える男

筆者はいつもより重いプレートをバーベルにセットしてデッドリフトを開始した。高校生は筆者のことなど少しも意識していなかったが、筆者が勝手に高校生を意識してしまったのだ。

3発目までは順調だったが、4発目の途中で「バキッ!」という音が腰から聞こえた気がした。

デッドリフトで腰を痛める山羊

「腰イわしたか!」

と筆者が気づいたときには、もうすでに遅かった。腰が肉離れを起こしてしまった。

腰に手を当てて痛みと戦う筆者は、筋トレを即刻中止して、更衣室でスーツに着替えて渋谷にある職場に向かった。電車の中で筆者は脂汗をかいていた。腰の痛みで苦悶していたのだ。

腰痛に耐える筆者

「何やってんだ俺は」

筆者は自分の愚かさを呪った。

高校生は自分のことなど1ミリも意識していなかったのに、二周り以上年下の高校生に一方的に嫉妬したばかりか、腰まで壊してしまったのだから目も当てられない。

「ほんと俺は何をやってもこうだな」

と落ち込みながら腰の痛みと戦っている最中、筆者は重度の腰痛に苦しめられていた一人の天才同級生のことを突如思いだした。

「そういえば石井弘樹は今どうしてるんだろ」

石井弘樹
注:生きてます

本文

腰が痛くて何もできん、、、で突然思い出したことが。

あれは高校3年の6月の日曜日、辻堂駅の朝のホーム。その日は神奈川県のインターハイ予選団体戦の準決勝と決勝が行われる日。

谷澤英彦はプロの試合に出るので欠場が決定(注1)していて、

「まあでも健太郎と弘樹がいれば、俺はダブルスで適当にがんばったふりすれば全国には寝ててもいける」

と通常営業の他力本願でまだまだ筆者(ヤギ)は余裕コいてた。

注1:舞台裏解説

当時の相模工大付属高校(現:湘南工大付)は増田健太郎を頂点とした絶対君主制を敷いており、部の監督だった「ヤマケン(高校の先生)」にイチミリも相談せずに、増田健太郎・谷澤英彦・石井弘樹の3人は輪番制で勝手にプロの試合に参加し、高校の試合をブッチしていた。
※もちろん「家来」である筆者に相談があるわけもなかった。

しかし、その辻堂駅のホームで弘樹が突然四つん這いにうずくまり、

「や、ヤギ、おれはもう一歩もここを動けないから後は頼む」と筆者に言ってきたのだ。傍(はた)から見れば四つん這いの弘樹が筆者にお願いをしている構図かもしれないが、それは「相談」ではなくただの「通告」だった。

石井弘樹

弘樹は当時重度の腰痛持ちなのは筆者も知っていた。しかしよりによって谷澤がいないことが確定しているこの大一番で筆者に大事な大事なインターハイ出場を託すなど正気とは思えない。

しかし、それほどまでに弘樹の世界最速の両手フォアは彼の腰を着実に蝕(むしば)んでいたのだ。

「ま、ま、ま、ま、任せといて。ヤマケン(当時の監督)には言っとくから。」

と、目ん玉を飛び出させながら筆者は答えたが、同様を隠せるはずもなく、この文章では「ま」は4回になっているが、実際には恐らく12回くらい「ま」が続いたと思う。人生の中で最も「ま」を連呼したのは後にも先にもあの日をおいてほかにない。

「ま」を連呼する筆者

準決勝は法政二高。筆者的には難敵だったマキノ君と対戦。めっちゃ緊張してたらマキノ君がもっと緊張してて6-1で勝利(健太郎は2秒かからず勝利)して決勝へ。

決勝は慶応高。筆者の相手はお笑い芸人より芸達者の橋本。6-2だか6-3で勝利し、なんとか県大会優勝。

その2か月後の松山インターハイでは我が相工大(現湘工大)は3冠独占し、筆者は谷澤の横にカバン持ちとして立ってただけでダブルス優勝し2冠達成。

インターハイ3冠時の増田・谷澤・石井
増田健太郎谷澤英彦石井弘樹と筆者
筆者は右下

ヤギというマイナーなテニスプレーヤーを知っているレアな人は

「ヤギのハイライトは王座決勝」

という印象かも知れないが、筆者にとってのウィンブルドン決勝は、インターハイダブルス決勝でも大学王座決勝でもなく、あのインハイ神奈川県予選団体戦の準決勝決勝だったことは誰も知らない(知らなくてももちろん何も問題ない)。

という青春時代のどうでもいい想い出が腰の痛みとともに記憶に蘇った。弘樹の腰は今はどうなんだろう。

ボリス・ベッカーに勝利した生前の石井弘樹氏
ボリス・ベッカーに勝利した石井弘樹
※生きてます

エピローグ

相模工業大学付属高校、通称「相工大(そうこうだい)」と呼ばれた我がチームは、

【王将】
増田健太郎(全日本選手権シングル2連覇)

【飛車角】
谷澤英彦(高校3年で全日本選手権シングル優勝。全日本室内選手権単優勝)
石井弘樹(Bベッカーを日本で唯一倒した男。全日本選手権ダブルス覇者)

【金】不在

【銀】不在

【桂馬】八木片男(筆者)

こんな陣容だった。

あの高3の6月のインターハイ団体戦の神奈川予選は、インハイ本戦同様シングル2本ダブルス1本で2本取った方が勝ち。その大事な試合に、飛車角抜きで王と桂馬だけで挑んだ試合だった。

将棋の駒で陣営を説明したイラスト

その後「桂馬」は他力によるインハイ2冠の実績で早稲田大学に推薦入学。
※当時史上最弱の特待生と言われた

大学3年の夏の関東学生シングルスで準優勝し、大学4年で早稲田の主将として大学王座(ダブルス3試合シングルス6試合の計9試合制)で4-4で勝負がかかったシングルス主将対決で、足が2か所折れた状態でマッポ4本しのいで大逆転して日本一に。

弘樹が与えてくれたあの試練から始まり、大学4年でテニスをやめるまでに、桂馬が「成り金」くらいにはなれたのかなと、ずいぶんと自分に甘い結論でこの記事を締めたいと思う。

追伸:

「王」は試合会場に弘樹がこなかったのになぜか余裕しゃくしゃくで、ときどき笑みさえ浮かべながら冷酷な顔で緊張しまくりの「桂馬」を見つめていたことを付け加えておく。

試合の勝敗よりも部下である桂馬が苦しむ姿を見ることのほうが「王」にとって極上のランチだったのかも知れない。

増田健太郎

その2に続く